寺院縁起

妙法寺について

縁起

当山は万治元年(1658)9月15日創立のお寺。明治24年の濃尾大震災で本堂が倒壊してしまいましたが、明治26年に再建され、その後、鐘楼堂・山門・を新築し境内墓地の整備が行われました。また、境内には七面大明神を祀る七面堂があり、平成31年に再建されました。

昭和18年に小松原鏡忍寺4世長栄坊日隆上人(工藤吉隆の子)の随身仏の高祖日蓮聖人ご尊像と縁起書(嘉永6年10月3日、小松原31世筆)を発見してから関西小松原と称しています。

住職あいさつ

仏縁をいただき、福島からこの尾張一宮に参りました。
妙法寺は、檀信徒・地域の皆さまと支え合いながら400年以上法灯が守られてきました。これからも伝統を守りながら「このお寺でお経をあげてもらって良かった」「お参りしやすいお寺」を目指して精進してまいります。

プロフィール

福島県出身。昭和59年生まれ。
身延山大学仏教学部卒。
平成27年結婚を機に一宮市へ。1男2女の父。
令和4年7月第二十四世住職に就任。百日間の日蓮宗大荒行堂を3度成満。

年間行事
毎月1日盛運祈願会
1月諸天善神祭祈祷会
3月春季彼岸会
5月永代百部経会
7月盂蘭盆施餓鬼会
9月秋季彼岸会
11月小松原法難会
御会式
12月除夜の鐘

除厄高祖日蓮大菩薩縁起

当山に安置し奉る御尊像は、日蓮聖人御弟子長栄坊日隆上人(工藤吉隆の一子)の随身仏にして中老僧日法上人の御作であり、高祖自ら御開眼の御霊像である。

この御尊像の由来は、文永元年十一月十一日房州東條小松原御法難より事起る。高祖四十三歳の時、帰依の信者、工藤吉隆の招きにより、御弟子鏡忍坊、浄円坊其外十人ばかりを共にして天津へ向かう途中、十一月十一日かねてより遺恨をもつ東條景信家臣数百人一行、小松原にて高祖を襲う。

「射る矢は降る雨の如し、打つ太刀は電の如し。弟子一人は当座に打ちとられ、二人は大事のてにて候。自身もきられ、打たれ結句にて候し云々」

かけつけた吉隆始め家臣も暫く敵を防げども多勢に無勢深手を負ひ此の場に倒る。高祖一旦、此の場を御立ち退かれしが、吉隆始め人々の安否を思い、再度小松原へ戻られしが、鏡忍坊はすでに生き絶え、吉隆は松の木にもたれ唱題の声かすかなり、高祖御泪にむせびたまいき。

吉隆一つの願いあり。我一子成長の上は御弟子と思召し下されと遺言、安堵してこときれり。その後、吉隆の一子を御側へ連れ行き名を日隆と名づけられ、弘安三年十七歳の時、高祖より父吉隆は去る文永の始め小松原に於て法華経の御為に打死せし事を話され、当年は十七回忌、彼の地に一宇を建立せよとの仰せにより房州へ下り小松原戦場の傍に庵室を結ぶ。不思議にも夜中御経読誦の声有り。日隆上人その声を尋ぬれば、父吉隆打死せし松の木より声あり。日隆上人その松の木を以て日法上人に願い高祖の御尊像を彫刻して随身仏とせり。高祖四十三歳八方的殺の難に遇い玉へ共吉隆其の難に替り高祖此難を免れ王う故に奉禰除厄高祖日蓮大菩薩と云うなり。

然るに右此の御尊像を当山へ安置し奉る由来は去る嘉永四年夏房州小松原山諸堂破壊ん及び復讐修繕の為現主愛智院日童上人病身の故、高弟智定院日境に諸国弘通を申しつけ智定院右の御尊像を持し当国へ来り、たまたま同年九月より病悩当山に止宿すること三ヶ年を経たり、同六年の五月房州より帰国せよとの使いあり。当山を出立致したれど再三引き返すなど種々の不思議在りて余儀なく御尊像を残し房州へ帰りたり。帰山の後、山内評議の上、何か高祖の思召し有る事ならんと改めて当山に安置し奉るよう後世の為に小松原山三十一世日童上人、智定院日境上人の書状相添え是を送られたるもの也。

南無妙法蓮華経

寺院概要

寺院名一乗山 妙法寺(いちじょうさん みょうほうじ)
宗派日蓮宗
住職名河村泰政
住所〒491-0824
愛知県一宮市丹陽町九日市場字北五反畑2819
アクセスお車の場合
名神自動車「一宮IC」出口から車で3分
電車の場合
東海道本線「稲沢駅」からタクシーで10分
電車の場合
名鉄バス『57』九日市場~せんい団地~森本~一宮駅東口 九日市場下車 徒歩5分
電話番号0586-77-3200
 HPhttps://ichinomiya-myouhouji.com/

〒491-0824
愛知県一宮市丹陽町九日市場字北五反畑2819
google map

TEL:0586-77-3200